メールを読んでいただけてるのかどうかすらわからない状況です。


私は「読んだ」のお返事が欲しいと思っています。


その上で、私のメールにお返事を書く気持ちになれなければ、その旨をお伝えしてくださればいいと思っています。

私なりに、お返事がいただけない、その理由を想像してみました。


例えば、お相手が私について傲慢と思われているからではないか?とか。飛躍しすぎですかね。


そう。確かに私は傲慢(な部分を持つ一個人)です。


が。


その一方で、お相手の方からのお返事がいただけない理由を、自分なりに想像するだけの謙虚さも持ち合わせているつもりです。


その謙虚さもまた、私が一個人として持つ、異なる人格です。


ですから、決して私に異なる人格がないという訳ではありません。


ひとりの個人として・・・・ネットでしたら かえる として、異なる考えを提示する事はあるかと思います。


賛同するところは かえる として賛同しますし、納得のいかないところは かえる として異を唱えます。


非を認めるにしても、かえる として受け止め、必要と判断すれば かえる として謝罪します。


それがいわゆる個人の尊重だと考えています。


ですから、どうしても匿名には疑問を感じるのです。


例えばですが、ある場において発展を願うと大義名分を被せても、それが匿名では要は闇討ちだと思うのです。


大義名分がむなしく響きます。


かえる で言えないような考えを、かえる で交流している相手に披露するのは邪道でしかなく、そこに信頼の基盤を置くのはいかがなものか?また、これらがどのように発展につながるのか?


要はこじれた時に身を翻しやすくするといった作為ではないのか?言いたい放題言って去って行くような事にはならないか?といった疑問が拭えません。


意見や感想が飛び交うのは結構ですが、作為的なのはいかがなものか?と思うのです。


作為は、誰か個人の考えや行動を自分の思い通りに・・・・あるいは、自分の意見を誰かに押し付ける事と大差ないと思うのです。


そもそも「傲慢だから無視でよい」というのも、傲慢といえば傲慢ですもの。
以下は私が過去に感銘を受けた言葉です。


>いつでも    は何かと、誰かと関わりを持つときは精一杯の誠意を込めています。
>そして細心の注意を払います。
>自分の言動で大切なものを壊してしまわぬように。
>自分の言動で自分の心を踏み躙ったりすることのないように。

>どんなに注意を払っても失敗する時もあります。



関わりを持つ時はこうありたい!と思いながら、そうなり切れない己の未熟さを噛みしめています。
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